朝早い京都散歩3 知恩院・明智光秀の首塚あたり  光秀の首の行方の謎

さてさて 前回のつづきです 早朝の散歩ですが 知恩院の門前まで来ました 次第に 陽が昇り 暑くなって 蝉の鳴き声が ひときは高くなってきました



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知恩院 三門(山門) 1621年 建立 国宝  現存の木造建築として最大の二重門 
いつ観ても大きいですね 上の方は霞みがかかっているようにみえます




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三門から 男坂の石段 この石段を昇った先に 御影堂(国宝)がありますが 今 御影堂と集会堂の解体保存修理が行われています それを 理由にして 石段を昇りません・・・・しかも 向こうから降りようとしても 黒門もその工事の関係で閉まっています また ここまで戻って来ないといけませんので・・・しんどいです
この男坂の石段・・・どこかで 観たことありませんか・・・そうです 超変てこ無国籍?映画「ラストサムライ」でトム・クルーズ扮するネイサン大尉が御所?皇居?で明治天皇に会いにいく場面で 昇る石段がこの男坂です 代役ではなく 実際にトム君がこの石段を昇っています




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三門のすぐ脇に 知恩院の通用門がありますが これは南門ですね つまり 三門は広大な知恩院の境内の南よりにあります






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通用門(南門)を出るとすぐに八坂神社の境内と円山公園が広がります 写真の道の右側は八坂神社の境内  道の左側の 昔で言うところの「真葛原」が 円山公園です 真葛が原は古くは八坂神社の境内でした





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さて 知恩院の三門前の神宮道を歩いて 黒門まで来ました 黒門の前には 有名な知恩院七不思議のひとつ「瓜生石」があります この「瓜生石」は知恩院が建立(平安時代末~鎌倉時代?)される前からあるといわれ 誰も植えていないのに この石から胡瓜のつるが伸び 花が咲き 瓜が実ったという伝説と 祇園社の牛頭天王が瓜生山に降臨したあと 再びこの石に降臨し 一夜のうちに瓜が実ったという伝説があります それ以外にも 石の下が空洞になっていて 二条城まで続いているとか 隕石だとか・・・・不思議な石です ということで 以前は旧境内の参道の途中にあったものですが 現在は旧参道がりっぱな道路になっているにもかかわらず 誰も堀出してどかそうとしません





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黒門から「瓜生石」を・・・・・ ほんとに じゃまな場所にありますね でも 祟り?が怖い?・・・・しかし なんで 瓜なのか?・・・いろいろと考察があるのですが・・・話が長くなるのでまたの機会にします





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黒門の「瓜生石」から 古門へ旧参道(華頂道)を歩きます 途中に 浄土宗の宗務庁がありました 知恩院は鎮西派の総本山でしたね




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古門から黒門の方を眺める 道は華頂道  この 古門までが知恩院の境内でした もとは それほど大きくはなかったのですが 徳川家康(浄土信徒)ら代々の将軍家の庇護を受けて 大伽藍の寺院になっていったのです 





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さて さて 古門から 再び 白川の流れに戻りましょう  白川の流れに逆らって 歩いているわけですが 鴨川からカギ方に 祇園街を通り 古門までを東西に流れていた白川は 古門のところで 北へ斜めに向かいます(水の流れは逆ですよ 南に流れています) 斜めに曲がるすぐのところに 細い小さな石橋があります





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古川町橋(一本橋)ですが 通称行者橋 あるいは阿闍梨橋といったほうが有名ですね どうして 行者橋と言うかというと 比叡山延暦寺の回峰行を行う行者がこの橋を渡るからという どうして この橋を渡るのかというと よくわからないが  粟田口の尊勝院の祭礼の際のこととして「白川の下流 知恩院のあたりに一本橋という2本の石を渡した橋を剣鉾をもって夜半に渡る(曲渡り)」( 橋本経亮1775~1805? 橘窓自語 1786年)とあることから もともとは尊勝院の祭礼用の神聖な橋だったらしく その関係からか 回峰行を行う行者が渡るようになったのも 千日回峰行を終えた行者が 尊勝院の元三大師に報告をして 京都の町に入洛するときに 最初に渡る橋がこの橋だからでしょう   この橋がいつ頃からあるのかわかりません 今の橋は 明治40年頃に架け替えられました 千日回峰行とは 常人には決して出来る修行ではありません 冗談抜きに命を賭けます しかし 回峰行を行う者はすでに 生き死にのことなど考えていないでしょう どのような思いで この橋を渡っているのでしょう そんなこと考えながら 超軟弱者の私が渡ってみました





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行者橋を渡ると すぐにあるのが 東の錦(市場)と呼ばれる古川町商店街です 古い時代の商店街の雰囲気を残しています 「京都のお店は物が高い」とおしゃる観光客の方々は一度来てみて下さい レトロ感覚最高! 残念ながら 今はまだ 時間が早いので 商店街は閉まっています



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さてさて さて 白川沿いへと戻ります  三条通りの手前の 民家の間のせまい路地の入り口に 江戸時代の明智光秀の首塚へ?の道標があります 「東梅宮並明智光秀墳」と書いてあるようです 東梅宮とは何でしょう?  花洛名勝図会には古くは知恩院の石橋付近を梅宮町といい この町の祭りの神様が 嵐山の梅宮大社の神様だということらしい うん・・待てよ・・梅宮大社といえば 先ほどの行者橋のところで出た「橘窓自語」を書いた橋本経亮ですが この人は 梅宮大社の社家の生まれで正禰宜まで務めた人物・・・・いろんなところで いろんなものがつながっていますね・・面白い しかも「橘窓自語」には 洪水になった川に 牛?のような得体の知れないものが 泳いでいたとか不思議話なども書かれています




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さて 雑談はこれくらいにして 光秀の首塚へ 路地の奥まで行ってみます 



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ありました 民家の間に挟まるように 祠がありますね





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罰あたりを承知で 祠の中を撮影しましたが ブレました  見るかぎり シンプルですね





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明智光秀公(?~1582)首塚 じっくりと観察して見ると かなり磨耗した古さを感じさせる供養塔です が ほんとうに光秀の首を埋めた首塚なのかどうか・・・・わかりません
この 首塚の解説版では 小栗栖で落とされた 光秀の首を家来が 知恩院まで運ぶ途中 夜が明けたために この地に埋めたということです

京都業書(京都地誌・・京都のことを調べるのに使う資料のひとつ)の中の碓井小三郎(1865~1928)の京都坊目誌によると 光秀の首は 粟田口の刑場(日ノ岡)に晒された後 栗田口黒谷(西小物座町)に 他の数千の首と一緒に埋められたという  1771年に光秀の子孫と名のる明田利右衛門が 栗田口黒谷の五人組連中から供養の五輪塔をもらい受けて それを自宅(現在地の東)へ移して菩提を弔った 明治維新後 現在地に移されたという 五人組連中から もらいうけたものが 五輪塔以外に光秀の首(骨)もあったのかどうかわかりませんが 五輪塔はもともと ここになかったみたいですね



おまけ 光秀の首の行方の謎
さて 光秀は 山崎の合戦で 秀吉連合軍に負けて 大亀谷から山科に抜けて 坂本に落ち延びる途中 深夜 山科の小栗栖で土民の竹槍で襲われ そこで 自害したとされています ここまでを 史実と仮定しておきます そうしないと もっと話が ややこしくなりますので 家臣溝尾庄兵衛の手で介錯された(明智軍記)光秀の首は その後 どうなったか・・・・

溝尾庄兵衛は光秀を介錯した後 首を京都妙心寺に納めようと 首を持って狼谷までいったが敵に囲まれたため 山際に埋めた(明智軍記)

京に凱旋した秀吉が三十三間堂で戦後処理(首実験)をした 明智方の首が 集められ その中に光秀の首があったので 秀吉は「首と胴体をつなぎ 金具でとめて 粟田口で磔にせよ」と命令した(川角太閤記)

同じく 京に凱旋した秀吉が 三井寺で戦後処理(首実験)をしたときに 小栗栖の百姓が光秀の首を持参してきた 見つけたときは 顔が削られていた首が2つ(この2つは光秀の家臣で身代わりの首)あり 翌日 埋められた本物の光秀の首を発見して持参したという その後 光秀の胴体をさがして首をつないで粟田口で磔にした(豊鑑)

もう この時点で話がバラバラになっています これら書かれた書物が 嘘くさいものなので信用できないものですが さらに 秀吉が 首実験した場所が 本能寺(言継卿記)となっているものもあり 晒された場所も粟田口でなく 本能寺とするものもあります それ以外に 光秀の最後と首の行方については様々な話が伝えられています これは 実際に 届けられた首が あるいは首実験された首が 光秀のものかどうか 最後までわからなかったというのが 真相のようです 戦後処理を急ぎ 自分のポジションを勝ち取ろうする 秀吉陣営のあせりと混乱がうかがわれます しかし 信長と光秀という 当事者2人の遺体がまったくわからなくなっているというのも・・・・・・

                              

                                           つづき 次回は岡崎から黒谷付近

この記事へのコメント

2009年08月12日 22:18
京都探訪の旅!いよいよ佳境ですね~!知恩院の山門、立派です。さすが徳川三百年の庇護のもと、一大伽藍を築いたのですね。しかし、「瓜生石」道の真ん中に鎮座してますが、古代の人たちは大きな石に対して特別の想いをもっていたのですね!ビックリ☆七不思議の残りもチョッピリ気になります
なぎさの民俗学者
2009年08月13日 18:01
京都のめぼしい社寺には なんとか七不思議というものがあります ほとんどが なんじゃそれは!というものばかりですが その中でも知恩院の七不思議は歴史?があるみたいですね

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